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長崎和牛の歴史

長崎和牛は歴史的遺産

長崎県における和牛の歴史は大変古く、壱岐(原の辻遺跡)や五島(大浜遺跡)などから2,200~2,300年前の弥生時代の牛骨や牛歯が発見されています。
また、鎌倉時代末期に記された国産牛の図説である「国牛十図」と南北朝時代に記された「駿牛絵詞」には、産牛地十国の一つとして、筑紫牛(壱岐牛)、御厨牛(平戸牛)が取り上げられています。

筑紫牛は「姿良く、本来は壱岐島の産である。元寇の際に元軍のいけにえとされたために一時少なくなったが、近年また多くなってきた。」と、御厨牛は「肥前国御厨の産で、逞しい牛である。もともと貢牛であったところからの呼称で中古の名牛の産地であった。西園寺公経から朝絵の印を許可された。」と記述されており、当代の良牛として賞されています。

さらには、長崎県は地理的な面から朝鮮との交流が盛んで、中世から近世を通じて朝鮮牛が島づたいに渡来し定着したとも言われており、長崎が和牛のルーツかもしれないと考えられています。

また、1862年には英国人トーマス・グラバーらによって、長崎市内に日本初の解牛場(うしときば)が設置され、出島では古くから牛肉料理が食されるなど、長崎県と和牛のつながりには歴史的に大変深いものがあります。

このような伝統を持つ長崎県の肉用牛は、現在も県農業の基幹作目として離島や農山村地域の振興を図るうえで重要な役割を果たしています。